ヨガ(ヨーガ)という言葉は、牛に引かせる車の横木(軛(くびき))を指しているんだ。
これは『神の力に人間を結びつける』ということを意味する。
つまりヨーガという修行は瞑想によって神と人が合体することを目的としていて、精神を統一して超自然的な力の取得を目指す修行なんだ。
どのように精神を統一するのかは、「ヨーガ経」ともいわれる『ヨーガ・スートラ』という経典に、心の内部の作用を制御する方法が示されていて、記されるとおりに呼吸を整えて、思念瞑想し、恍惚状態となり神と合体しようと試みた。
この修行法は、バラモン教・ジャイナ教という仏教以前のインド宗教にも取り入れられ、お釈迦様をはじめとして仏教にも組み込まれていったんだよ。
仏教では最終的には輪廻からの解脱、つまり地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道の六つの世界の生まれ変わりから逃れることを目的としていて、その方法として神と合体することを一つの方法としたんだ。そして仏教では「禅定(心を一定に保ち続けること)」として積極的に修行に取り入れられた。
坐禅を組むようになった由来だね。
ヨガと禅の違いは、ヨガが神人の合一によって心身の健康を得るのに対して、禅では「無」を悟って、功徳や利益を求めない境地に達しようとしていること。
今日一般的に行われているヨガは、そういった宗教色を排除して、そのなかの呼吸法と、精神統一する際のポーズを利用して体の健康を目指しているものだから、その目的を考えると修行ではないことがわかるね。
更に宗祖の法然上人は「我々凡夫はそういった修行のできる器ではない」とおっしゃられた。
仏教ではもとより、三学といわれる「戒」「定」「慧」を修行の根本としてきた。
この中の「定」こそが禅定であり、座禅の神髄である。
しかし、我々は一時たりとも心の中を無にすることはできず、邪念を持ち続けてしまう、貪欲の塊である。法然上人も「まるで猿が木から木に飛び移るようなものだ」と表現されている。
これは「あなたがそうだ」ということではない。すべての人間が、である。
それができない自分を認めることから自分を見つめることが始まる。
まずは…
瞑想も時には危険な武器になる。時には麻薬になるともいわれる。
使い方を間違えてはいけない。
エクササイズであるということをしっかりと理解することも必要かもしれない。
すこし覚えておいてほしい。
南無阿弥陀仏