2024年、法然上人が43歳で浄土宗を開宗されてから850年の月日が経とうとしています。
現在、全国では浄土宗開宗850年を記念して様々な事業が行われています。
昨年、浄楽寺におきましても、 増上寺布教師会の神奈川メンバーにて、 記念対談・記念念仏などが行われました。
800年以上もお念仏が縁としてつながり、 現代のわれわれの元にも教えとして伝わっているとは、本当に有難いことです。
法然上人がお念仏のみ教えに導いて下さらなければ、 来世での極楽往生は叶わず、輪廻を繰り返すばかりでした。
この850年のありがたさを皆さんにも感じていただくために、 法然上人の一代記を連載でお送りしたいと思います。
「比叡山へ向かう勢至丸」
父の死後、勢至丸は山中の「菩提寺」を目指します。
菩提寺住職の観覚は母の弟で勢至丸の叔父にあたり、 かつては比叡山で学んだ学僧でした。
菩提寺は行基が再興したとされ、 今でこそ僧房の跡が残るのみとなりましたが、 当時は大寺院でありました。
そんな菩提寺に入ったのは、 父の遺言に従ったということもありますが、 夜襲の輩、貞明から勢至丸を守るという意図もあったことでしょう。
勢至丸の日常は、勤行、掃除に従事する傍ら、 天台宗の指南を受けていたようです。
観覚の導きのもと、勢至丸は一を聞いて十を悟り、 聞いたことは覚えて忘れないという才覚をみせていました。
勢至丸の非凡な優秀さを知った観覚は、 当時の最高学府であった比叡山延暦寺こそ学びの場にふさわしいと考えました。
勢至丸も望んだことで、さっそく母に許可を頼みます。
「母上のそばに仕えて孝養を積むことが大切なのは理解しています。しかし、私は一日も早く比叡山に登り修行を積み、父上の言われた通り、すべての人が救われる道を見出したいのです。ひとたびの別れを哀しみ、どうか嘆かれませんように」
と言葉を尽くして説得した。
母にとってたった一人の子を遠くに手放すのは 身を切られるよりよほどつらかったことでしょう。
比叡山行きを承諾しながらも、
「かたみとて はかなき親のとどめてし この別れさえまたいかにせん」
と夫を失い、加えて子との別れに悲嘆にくれる心の内を詠んでいます。
そして勢至丸出立の日、見送る母はなお別れがたく、 袖に落ちる涙が勢至丸の髪を濡らしてしまうほどでありました。
母との別れののち比叡山に入山した十三歳の勢至丸が見たのは、 破戒、政治容喙の堕落僧の姿でした。
僧の多くは貴族社会で不遇を経て、出家で活路を求めるものばかり。
出家は出世の手段とされていました。
寺院は争って荘園をたくわえ、僧兵を組織し仏門同士で争っていました。
道心がなおざりにされ、仏法の破滅の状態。
入山早々に勢至丸は比叡山の現実を思い知らされたのでした。
続く
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