2024年、法然上人が43歳で浄土宗を開宗されてから850年の月日が経とうとしています。
現在、全国では浄土宗開宗850年を記念して様々な事業が行われています。
昨年、浄楽寺におきましても、 増上寺布教師会の神奈川メンバーにて、 記念対談・記念念仏などが行われました。
800年以上もお念仏が縁としてつながり、 現代のわれわれの元にも教えとして伝わっているとは、本当に有難いことです。
法然上人がお念仏のみ教えに導いて下さらなければ、 来世での極楽往生は叶わず、輪廻を繰り返すばかりでした。
この850年のありがたさを皆さんにも感じていただくために、 法然上人の一代記を連載でお送りしたいと思います。
「出家して比叡山で学ぶ」
最澄によって開かれ、 以降は弟子の活躍によって日本随一の仏教拠点と成った比叡山は、 東塔・西塔・横川の三地区に分かれ、東西それぞれに五つの谷、 横川に六つの谷があり、これを総称して三塔十六谷と呼んでいました。
一一四六年、比叡山に登った十三歳の勢至丸がまず門を叩いたのは、 西塔北谷に住む持宝房源光(じほうぼうげんこう)でした。
源光のもとに差し出された叔父観覚(かんがく)の紹介状には 「進上、大聖文殊(だいしょうもんじゅ)像一体」と記されていたといいます。
勢至丸の智慧の才覚を文殊菩薩にたとえ、弟子入りを願う意味でした。
勢至丸は、源光のもとで天台宗の僧となるための基礎的な学問を学びますが、 ただちに古くから学僧たちが議論を重ねてきた難解な箇所に疑問を進言しました。
勢至丸の優れた資質に源光も気づき、 二年後、十五歳になった勢至丸を東塔西谷の碩学(せきがく)として名高い 皇円(こうえん)阿闍梨(あじゃり)に預けます。
この師のもとで勢至丸は髪を剃り、 正式に出家したと伝わっています。
法然は皇円のもとで天台教義の根本を学びます。
こうした学問を習得するには一生かかるものですが、 法然は計六〇巻にものぼる膨大な経典を、わずか三年で読破し、 内容を一通り習得してしまったといいます。
皇円も法然の俊才ぶりに目を見張り、 学業に精進してやがては天台宗のトップである天台座主(ざす) になるようにと励ましたと伝えられています。
法然は師の励ましを受けて精進しますが、 修行が進むにつれある深い苦しみとぶつかります。
父の遺言を守り、自他平等に救われる道を求めて修行に打ち込んでいるものの、 父を殺した敵(かたき)への憎しみをはじめ、 多くの煩悩の心が消えることはなかったのです。
三人の師をもってその才覚を認められた法然ですが、 その評価をそのままに受け止めることはできず、 自身の機根を見つめなおすことになるのです。
続く
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