2024年、法然上人が43歳で浄土宗を開宗されてから850年の月日が経とうとしています。
現在、全国では浄土宗開宗850年を記念して様々な事業が行われています。
昨年、浄楽寺におきましても、 増上寺布教師会の神奈川メンバーにて、 記念対談・記念念仏などが行われました。
800年以上もお念仏が縁としてつながり、 現代のわれわれの元にも教えとして伝わっているとは、本当に有難いことです。
法然上人がお念仏のみ教えに導いて下さらなければ、 来世での極楽往生は叶わず、輪廻を繰り返すばかりでした。
この850年のありがたさを皆さんにも感じていただくために、 法然上人の一代記を連載でお送りしたいと思います。
「黒谷にて隠遁し修行に励む法然」
将来は比叡山を担うと期待された法然ですが、 いくら修行を重ね、 称賛を得ても生死(しょうじ)の迷いから離れることはできませんでした。
そこで十八歳になった一一五〇年、 師の皇円阿闍梨のもとを離れて山深い西塔の黒谷へと移り、 今度は融通念仏宗の正統継承である叡空に師事します。
黒谷は俗世間的な名誉を捨てて、 真剣に道を求める修行僧たちの道場でした。
法然は弟子入りに際し、 「自分は父の遺言を忘れたことがなく、いつでも隠遁したいという気持ちを深めてまいりました」 と自分の思いを吐露しています。
この話を聞いた叡空は、 「幼少から生死の迷いの世界から離れようとすることは、あるがままの道理(法然道理)を追い求める聖(ひじり)」 であると賞賛して、法然房源空と名乗らせました。
この黒谷の地で、九八六年、 念仏による極楽浄土を勧める源信が編纂した『往生要集』との出会いがあり、 法然の人生の転機となります。
「『往生要集』を先達として、浄土門に入るなり」この出会いが法然を浄土教へと導くきっかけになりました。
法然の黒谷での求道は真剣で、 師の叡空とは激論へと発展する問答を何度も繰り広げていました。
しかし、修行に励めば励むほど、 修行の第一歩となる生活・行動を整える戒律さえも守ることのできない 自分の能力不足を痛感することになりました。
もともと仏教の基本は戒・定・慧の三学からなります。
戒は自分が日々正しい行動を送ることで心の平静が保たれて 禅定(ぜんじょう)の境地に入り、真実の世界を見抜く智慧が開かれます。
法然はこの三学を体現しようと修行を重ねましたが、 いつも心は乱れ、心の平安を得ることができませんでした。
そして 「自分は三学の器ではない。この三学のほかに自分の心にふさわしい教えはあるのか。わが身に適した修行があるはず」 と今までの仏教の常識から離れた教えを捜し求めることになります。
こうした法然の深い自省が、 これまでの念仏の流れに新しい意義を見出すことになり、 万人救済への扉が開かれることになるのです。
続く
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