終活という言葉も一般的になったのでしょうか。
実際に何をするのかはわからないが、 なんとなく自分が死んだ後に備えて事前に何かをしておくものらしいということは周知のことだと思います。
エンディングノートには葬儀に呼ぶ友人知人のリストを残し、 土地の名義変更、遺産・保険受取人や介護にかかわる準備、 所持品の整理。
自分の存在がなくなった後、 残されたものが煩わしいことのないようにという思いが終活を進める動機となるようです。
全国で墓仕舞いの依頼が殺到しています。
残されたものに墓の世話をさせるのが申し訳ない、 迷惑をかけたくないから。
近年は家族間においても距離感を保とうとする家庭が多いのでしょうか。
確かに他人に迷惑をかけないというのは最低限のルールかもしれません。
それでも自分を育ててくれた親です。
親戚です。少しくらい迷惑をかけられても孝行の一環と思えそうなものです。
しかし、それは家庭でそれぞれですし、 苦しみの感じ方も人それぞれです。
否定をするつもりは毛頭もありません。
仲のいい家庭、悪い家庭、人間ですから色々とあることでしょう。
相続という言葉の語源が仏教の言葉であることはご存じでしょうか。
仏教では、すべての物事は諸行無常で一時も定まることなく変化し続けるものだと説きます。
変化は継続し消滅の後に生成が繰り返されます。
川というものは水が流れてできるものですが、見た目は川です。
しかしその実は水が流れ続けることで川があり続けます。
同じように絶え間なく続くことで、在り続けるものが「相続」という意味で説かれています。
終活やエンディングノートで次の世代に伝えることは、 立つ鳥跡を濁さずということでいいのでしょうか。
相続するのは財産だけでいいのでしょうか。
お金も大切です。
残されたものに少しでも豊かにいてほしい。
その思いはありがたいことです。
しかし、先祖から代々続くその流れがあるからこそできることがあると思います。
それは、信仰を相続するということです。
人に生まれた喜びは、仏教に出会えることができるから。
六道で唯一の仏縁の世界です。
仏教というもののことはよくわからないが、 小さいころからお仏壇には何か温かみのあるものを感じていた。
悪いことをすると会ったこともない先祖に見られているような気分になりバツが悪かった。
近年の若者はそんなことを感じることができているのでしょうか。
その縁は自分が自分であることを示し、 幸せや苦しみと向き合う姿勢と知恵を与えてくれます。
そして自分がいなくなった先に続く世界においても、 仏教はその大切な人を支え、生きる指針となるものです。
最後にはお念仏で極楽往生です。 次の世では再会を喜ぶことができます。
大切に思う人であればなおさら、気を使うことだけでなく、 仏縁を、念仏を相続されることをお勧めいたします。
南無阿弥陀仏
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