「未来が見えるのならば私も」
お彼岸を終え、十夜法要の時期となります。
十夜法要とは、無量寿経というお経に説かれる「この世で行う十日十夜の善行は、浄土で行う千年間の善行の功徳にも勝る」という教えが元として行われています。
ここで言う善行とは南無阿弥陀仏のお念仏のことを指しています。
お念仏は阿弥陀仏が選ばれた行で、となえれば必ず極楽浄土からのお迎えをいただける、あらゆる功徳の備わった万徳無漏(まんとくむろ)の修行と説かれます。
最上の善行、すべての徳が漏れることなく備わったお念仏です。
さらにお十夜でとなえれば、 浄土の千年間の善行にも勝るほどの功徳を得られるというのです。
しかし、どれほどの方が真剣にお参りし、お念仏をおとなえしているでしょうか。
このお念仏のありがたさというのは機(機会、自身の能力)をもってして初めて感じられるものなのです。
子どもの時分、親に言われ家業の手伝いをさせられた人は、 「友達と遊びに行きたいのに」「自分の時間なのだから好きに使いたいのに」 と思ったものでしょう。
「勉強をしなさい」と言われ無理やりしてきた人も同じだと思います。
しかし、真面目に、真剣に取り組んできた人は当然ですが、嫌々ながらもコツコツ積み重ねてきた人にもそれなりの能力、地力が備わるものです。
皆さんの中には「あの頃これをしっかりとやっていれば」という後悔を感じたことがある人もいるのではないでしょうか。
未来がわかっていたならば、 やるべきことをやってきたはずだと言い訳したくなります。
そして、未来をすでに経験した大人は子どもに今何をするべきか伝えようとするものです。
仏教はお釈迦様が説かれたこの世の真理です。
時がたってもゆるぎのない、変わらないこの世の理です。
その真理を見つめたお釈迦様は人々に 「苦しまないためには」「苦しみを手放すためには」「幸せになるためには」 どう生きればいいのかを教えの中で伝えてくださります。
しかし、未来が見えない我々には念仏のありがたさがわからない。
ここで言う機とは、近しい人が先立たれた時(機会)や、 自分だけの力ではなせないことがあると自分の限界(能力)を覚ったときです。
こうであってほしいという思いが、 その存在を想う力になります。
お念仏も極楽浄土も阿弥陀仏も同じです。
どうかこの機会に真剣にお参りください。
南無阿弥陀仏