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2025年2月のネット法話「お釈迦様の入寂」

執筆者の写真: 副住職副住職



2月15日はお釈迦様が亡くなられた日で涅槃会という法要が行われます。


本堂には涅槃図というお釈迦様の入滅(最後)が描かれたお軸を飾ります。


涅槃図には悲しむ弟子や動物、枯れた草花、菩薩、母摩耶夫人など生けとし生けるものが悲しんでいたり祈っていたりする様子が描かれています。


古くよりこの涅槃図では絵解が行われ、文字の読めなかった方にも仏教の教えが伝えられ、時には娯楽としても楽しまれていました。


涅槃とは、ただ命が終わった状態を指すのではありません。


煩悩という薪が智慧の火によって焼き尽くされた状態とも表されます。


究極の智慧を体得したお釈迦様が、身体的な苦しみからも解放されたもっとも安らかな状態とも言えます。


ただ命が終わればいいということではないことがお分かりになるかと思います。


この涅槃は涅槃寂静といい、諸行無常、諸法無我と三つで三法印といい、

お釈迦様の説かれたこの世の真理の代表的なものとして挙げられます。


「死」を連想するとき、皆さんはどのように考えますでしょうか。


法然上人は「朝(あした)に開(ひら)くる栄花は夕べの風に散り易く、夕べに結ぶ命露(めいろ)は朝の日に消え易し。これを知らずして常に栄えんことを思い、これを覚らずして久しくあらん事を思う。」と説かれています。


「花は散り、露は消える。同じように命は儚いものである。ところが人というものはこのことを知らないで、永久に栄えるように願い、このことを理解しないで自分はいつまでもこの世にあると思っている。」と説かれています。


法然上人は、この世に生ましあまたの人は、仏教に出会える世界に生まれたのにもかかわらず、日々に罪悪を重ね、日々をただ楽しみ、またむなしく地獄餓鬼畜生の三途の世界に生まれ変わる悪縁を得ていることを嘆いているのです。


仏教では死とは次の生への始まりです。


だからこそ、その死までに何を行うかをしっかりと考える必要が説かれるのです。


ただ徒に日々を過ごすのではなく、今日は明日のために、 明日は明後日のために、続いていく中で今日が最後のように生きることが望まれています。


 入滅と聞くとやはり悲しいことのように聞こえてしまいます。


しかし、涅槃図に描かれるお釈迦様のお顔からは苦しみ、悲しみは伺えません。


何事もなかったかのように穏やかなお顔です。


それはまさに悟りの境地であります。 一切の苦しみから離れた様子であります。


我々には成しえない最後だと言えるでしょう。


だからこそ、お釈迦さまはお念仏を、阿弥陀仏を伝えてくださいました。


臨終ののち、速やかに極楽に向かい同じ境地を目指すことができます。


この世に生まれたご縁をしっかりと次の世につなげてまいりましょう。


南無阿弥陀仏

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