五月二十四日に十二年に一度の三浦三十八地蔵霊場御開帳を終えました。
期間中は三浦半島内にたくさんの方が訪れたことと思います。
この霊場参りという慣習は江戸期に始まったようです。
当初は村で「講」を作り、資金を積立て、 御開帳の時期が来ると数人の代表者を選抜しました。
この代表者数人が「講」に属する皆々のために札所を巡ったとのことです。
これが旅行の始まりだと言われますが、 祈りと共にご当地の食を楽しみ、景色も楽しんだことでしょう。
そして「御朱印」を求め札所を訪れます。
この期間中は一挙に札所が御開帳することで霊場参りが実現します。
札所を全て巡り御朱印をいただくと、 その願いが仏さまに届いたことの証として「結願証」をいただくことができます。
今回の地蔵霊場の参詣者は何を願い札所を巡ったのでしょうか。
結願証をお授けすると、皆達成感に満ちた笑顔でお礼を言い、 足取り軽く寺務所を後にしていました。
その後ろ姿を見てそれぞれの祈りが伝わるようにと、 こちらも願わずにはいられませんでした。
昨今、御朱印というと賛否両論があります。
御朱印ガールという言葉も古くなりましたが、 御朱印ブームは盛りを超え一般化しました。
様々な御朱印の形が生まれていますが、 それらを求めお参りする人は後を絶ちません。
もともとは納経することで、 そのお寺の本尊さまの代わりとして御朱印をいただいたわけですが、 今やフランクなスタンプラリーと化したその現状を嘆く僧侶もいます。
しかし、私は、その本質は「結縁」だと思います。
多くの方が仏さまとのご縁を結ぶツールとなっているのです。
仏教、宗教と聞くと身構えてしまう方も、 御朱印というきっかけでお寺に足を運んでいただくことができます。
本当に有難いことだと思います。
地蔵霊場参りでお参りされた方は皆、 敬意を持って巡られているように感じました。
それぞれの「祈り」があるのでしょう。
「祈り」とは自らの至らなさを信じ、 仏の力を素直に願う心です。
巡礼者にはそういった共通の雰囲気がありました。
この祈りの最上なるものがお念仏です。
「自分だけではどうすることもできない」 と自身の至らなさを知っているからこそ、 阿弥陀仏の救いを心から求めるからこそ、 お念仏は声になります。
その想いに仏は答え、見守り、 願いを聞き入れて下さることでしょう。
次は五年後の観音霊場参りです。
自分の生きる道を改めて見据えるためにも、 機会が巡りましたらぜひご参加ください。
南無阿弥陀仏