略歴・生い立ち
平安時代後期より鎌倉時代にかけて三浦党を率いた三浦大介義明(おおすけよしあき)の孫にあたる。義盛は頼朝の挙兵に応じて軍功を立て、治承4年(1180)には侍所別当に任ぜられた。平家追討、奥州征伐にも功があり、頼朝の信任も厚く、鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。義盛の阿弥陀三尊の発願は、奥州遠征の勝利のためともされるが、また、ひと足早く運慶に仏像を依頼し、伊豆に願成就院を建立した北条時政への対抗心からともされる。頼朝の死後、北条氏と和田義盛の対立は激化し、やがて北条氏の挑発もあって、建暦3年(1213)鎌倉合戦がおこり、和田一族は討滅した。由比ヶ浜近くの和田塚はその合戦の名残である。
義盛は三浦義明の長男杉本太郎義宗の長男として久安3年(1147)に生まれた。父の義宗は鎌倉の杉本に城館を構えていた。杉本寺もあったこの地は六浦路(金沢街道)も通り、三浦一族勢力拡大の重要な拠点のひとつだった。義宗は六浦から海を渡り案房に渡り、勢力を伸ばそうとし、その戦いで死亡した。
義盛このとき17歳。義盛は三浦半島の南部の和田(三浦市)を本貫とし和田を名乗る。和田の地は三浦一族最南端の拠点で、入り江の湊をそなえていた。
頼朝に侍所別当をのぞむ
義明を本城に残し、安房に逃れた和田義盛らの三浦一族はやはり安房に撤退してきた頼朝と合流した。盛衰記によれば、この折、三浦一族は頼朝の健在なのを見て一同泣いて喜んだと伝え、また義盛が侍所の別当に任命されることを頼朝に望んだとも伝えられている。義盛は悲喜こもごもの再会の場で「泣き嘆いても仕方のないことだ。今こそ一段と思いを入れて平氏を打ち滅ぼし、頼朝様の天下にしようじゃないか。その暁には、この和田義盛を侍所の別当にしてもらいたい」と素っ頓狂な声で発言したとも伝えられている。命からがらの再会でこの発言は落人たちを元気付けることになったであろう。
この発言の効能があったかどうかはわからないが、早々に頼朝から初代の侍所別当に任命された。なお侍所は鎌倉幕府の重要な政治機関のひとつで、御家人の統制を任務とし、長官を別当、時間を所司という。
和田義盛の人柄
『和田義盛』の著者若命又男氏は著書の中でその人物像についておおよそ次のように指摘されている。
「もし、鎌倉時代初期の武将を大きく、純武人型と政治家型武将に分けることができると義盛は性格は単純で誠実、武勇に優れた純武人型に属するのではないか」と述べている。
つまり、政治的感覚に勝れ、行政的手腕も高く、性格は冷静、複雑、容易に人に乗ずることを許さない政治家型武将ではなかったということになる。
確かに義盛の事跡を見ると、同族意識の強い、単純で感性で動く人柄が見えるようにも思われる。